携帯GPS地図『マッピー』提供ブログ用アイコン01 2014年 06月 09日 ( 1 )

携帯GPS地図『マッピー』提供ブログ用アイコン01 ある女優からの手紙

こんにちは。

今日は知人のブログに掲載されていた記事を紹介しますね。(承諾済み)
すでに、2007年当時の新聞でお読みになった方もいらっしゃると思いますが。


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家族    ある女優からの手紙


「父の分も」弟と歩んで


 日曜日の「家族」、いつも心を静かに拝読しています。
様々な生き様があるのですね。
私はパソコンを持っていないので、ペンを取らせていただきました。
この手紙は、私が女優をしている事で、同じ境遇の方々と少しでも
勇気を共有できたらという思いと、一人の人間として
純粋に心の声を聞いて頂きたく、ペンをとった次第です。


 私は島根県の出雲市で生まれ育ちました。
私が長女、下に3歳違いの弟、9歳違いの妹の3人兄弟です。
両親とも21歳の時、私が生まれました。

 父は農協に勤め、母はバスガイドを辞めて、地元で当時、
活気のあったベニヤの合板工場で働いていました。
田んぼや畑を祖父がしていましたので、幼い時は、
きょうだいで田植えや稲刈りを手伝ったり、
畑のビニールハウスの骨組みで遊んだり、
竹とんぼや竹馬、竹鉄砲など、おもちゃは、
もっぱら父の手作りで、野山を走り回って遊びました。
ぜいたくは出来ませんでしたが、明るく、思い出いっぱいの子供時代でした。

 父は勉強に熱心で、私が小学校中学校の頃から
「お父ちゃんテスト」をしてくれました。
新聞の漢字を書き出し、意味を辞書で調べる。
読んだ感想を作文に書く。
算数のテストを作り、赤丸をつけて採点してくれました。

 高1の1月、父は仕事上の試験のため、松江市で合宿をしていました。
金曜の夜に戻ってきて、土日を家で過ごし、また月曜からは松江に行く。

 2度目の金曜日です。
野菜がたくさんで肉が少しのすき焼きをみんなで食べ、
その後、父はこたつで勉強していました。
「真紀」と私は呼ばれ、

「真紀は勉強して、大学へ行けよ」

「約束」

と言い、私の頭をなでてくれました。


 その次の金曜日。
父は帰ってきませんでした。
夜になっても母もいません。
夜中の12時ごろ、電話が鳴りました。
病院からの危篤の電話でした。
きょうだい3人、おじさんの運転する車で松江に向かいました。

 廊下で、母と、父方のおばあちゃんが拝んでいます。
怖くなりました。
病室は面会謝絶の札がかかり、中に入ると、
父は機械に囲まれて少しも動きませんでした。

 後で知ったことですが、父は合宿所で、金曜日の夕方、
大量に吐血し、そのまま胃の手術をしたそうです。
術後、付き添った母と

「のどが渇いた」

「痛い」

「子供には言うなよ。すぐ良くなる」

など少し会話をしたらしいのですが、痛み止めの注射の後、
ショック状態になり、意識を失ったようです。

 私たち子どもは土日は病院にいましたが、
月曜日には家に戻り、学校に行きました。


 その月曜日、父は亡くなりました。

 37歳でした。

夕方、父が母と一緒に家に戻ってきました。
2年前に、畑をひとつやめて建てたばかりの家です。
母が泣きながら、でも強く

「お母ちゃん、これから頑張るけん」

と言い、私たちを抱きしめて泣きました。


 弟が一番大きな声で泣いていました。
中1でした。
部屋に閉じこもり

「お父ちゃん、お父ちゃん」

と何度も叫んで、泣いていました。
妹は小1で、皆が泣いているのが悲しくて泣いていました。


 私は父と約束した進学をあきらめ、実業団のバレーボールを選びました。
島根になるべく近いチーム、お給料の安定しているチームを選び、
当時、月10万円の手取りのうち、7万円を家族のために貯金しました。


 その後、弟と私は、同じ東京で暮らすことになり、
よくお互いを励ましました。
弟は結婚し、女の子ばかり3人の子に恵まれました。
一番下の子と、私の初めての子が同い年です。


 父が亡くなって20年以上たち、それぞれの人生を歩み、幸せでした。
父の分も・・・・と皆が生きてきました。


 おととし、その弟が、がんの告知を受けました。

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 生まれ変わっても、きょうだい


 弟は、会社の定期健診で胃潰瘍(かいよう)といわれ、
05年6月に再検査を受けました。

「どうせたいしたことないよ」

弟も私もそう思っていましたが、胃がんだと診断され、
7月下旬に全摘手術。

「良くなるから、田舎の母や妹には知らせない」

と弟は言いました。
8月に退院しましたが、183センチで75キロはあった体重が
10キロ近く落ちてしまいました。
1ヶ月ごとの検診は、裁判を待つ被告人のような気持ちです。
陰性の結果が出るたびに大喜びをしていました。


 12月に皆で田舎に帰る事にしました。
母、妹夫婦、弟夫婦、私の夫、そして子どもたち。
温泉の大部屋で雑魚寝し、鍋をつつきました。
弟は、前のようには、どんどん食べる事が出来ません。
口の中で少し食べ物を運んでは、30回以上かみました。
少しでも早く飲み込むと、のどに引っかかり、もどしてしまいます。

 盛り上がりの勢いで、弟ががんのことを話しました。

「でも、もう大丈夫だから」

弟も私も言いました。
母も妹も泣きました。

「家族だから、これからは何でも言ってね」

と母が言うと、弟は

「これからだけん、頑張ろう」

と。
私たちはきずなを深めました。


 去年、桜を見て、私たちは何度、泣いたことでしょう。


 弟のがんが突然、脳に転移しました。
会社で倒れたのが4月3日。
精密検査を受けた病院で

「どうやら転移の可能性が高い」

と言われた弟が、携帯でメールを送ってきました。

「桜がきれいだから、缶チューハイを買って知らない公園で飲んでる。
お姉ちゃん、これが夢ならいいのになあ」

初めて本音で苦しさを伝えてくれました。


 再入院の説明の際です。
医師からは突然「余命1年」と突きつけられました。
あの時の弟の横顔。
ピタッとメモを取るペンが止まった様子は一生忘れません。

 帰りの車の中、2人とも何も話しませんでした。

「大丈夫だよ」

それしか言えませんでした。
弟と別れ、車に乗った時、一人、大声で泣きました。


 何も罪を犯していない人間が死刑宣告されたような、世の理不尽さ。
言いようのない怒り。
希望を失った数日を経験しました。
外を歩いていても、何を食べても、何も感じないのです。


 06年5月23日
弟は36歳で亡くなりました。


再入院してからの1ヶ月の出来事は
つらくてつらくてうまく書くことが出来ません。

「家族に手紙を書くんだ」

と、弟はベット脇に辞書と便箋を置き、
仕事の書類も紙袋のそこが抜けそうなほど持ち込んでいました。
しかし、それらに触れることは一度もありませんでした。
脳への転移で言語障害が進み、不自由になった言葉で

「母さんに言わないで」

と言い続けました。


 亡くなる3日前に、母に言いました。
病院の階段のおどり場で

「母さん、本当はよくないんだよ。しっかりしてね」

と言うと、

「真紀ちゃん。私は母親だけん、わかっちょったよ。
あんたがどんどんやつれていくのを見て、わかっちょった」


 最期は、私がみとりました。
苦しく息をしている弟に

「もう頑張った。
家族のことは姉ちゃんに任せて。
安心していいよ。
いつか生まれ変わったら、またきょうだいだよ。
お父ちゃんとお母ちゃんの子どもだよ」

と耳元で言いました。
すると、うそのように、すーっと息をするのをやめ、
医師も見守る中、ほんの数分で心臓が止まりました。

 今日がある━。

こんな当たり前のことが私たちにとっては、幸せです。
開いて置いてある窓辺の本が、そよ風でページがめくられるような何げない毎日。
幸せな事です。

 入院の前、弟夫婦と少しお酒を飲みました。
弟は笑いながら

「お姉ちゃん、ぼくに何かあったら家族を頼むよ。家族はボクの分身だけん」

と言いました。


 父が、弟が、心の中にいます。

残された弟の家族は、

私の、

私たちの大切な家族です。                         
                                                            江角 マキコ

   




 江角さんの手紙は、先週まで5回にわたり掲載した
「千の風になって」をきっかけに寄せられました。
ご本人の了解のもと、一部省略して紹介しました。                                                                              
(谷津 憲郎)


(朝日新聞 5月20日)

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そして、たまたまこの記事が新聞に載った2007.5.20と同じ頃発売された竹内まりやの「Denim(デニム)」の中の一曲
返信です
私も購入し幾度も聴きました。


ご訪問ありがとうございました056.gif
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by mamoei | 2014-06-09 16:58 | 世の中のこと | Comments(14)